昭和40年9月9日 朝の御理解



信心をさせて頂くものは、何事にも、信心になれよと。
信心をさせて頂くものは、何事にも、信心になれよと。なにごとにも、信心になりましょうという。何事も、生き生きとしてこないです。生きてこないです。今日、私は、特に、お金の生かし方を、お金、浄財、「ね」、生きた金を、浄財という。「ね」。私、いかに神様にお供えをするからというて、必ずしもそれが、浄財じゃないと思う。
もう、十何年も前の話でしたかね。随分なるでしょう。まだあの、田主丸というところにある、ひじょうにその、料理屋さんがあることでしたよね。ですからその、そこの女将さんが、参ってきてから、「もう、本当に私共の商売ほどいやな商売はない」というわけですね。「もう、お客さんを騙してから、お金を巻き上げるようなその、私共に○○というその、仲居が居りますけれども、私共の、一番大将でしてそれが、もう、これが人の懐の中を見ることはもう、名人です」ち、言うとる。「もう、この頃もう、それこそもう、それこそもう、ボロんごたる着物着てから、その、店口立った」ち。それで、他の人たちが、そのう、「あんたあっち行かんの」ち、言うてから、追い払ろうたところが、その人が出てきてからですね、「あら、金もっとるけん、いっぱいあの、上げんの」ち。いうてから、また、呼びに行ってから、とうとう、引っ張り上げた。とにかく、一週間居続けした。もう、それこそ、胴巻きのなかに持っておったお金ば、全部、使わせてしもうてから、追い立てたんですね。もう、そん変わりその、(まさい)さんがですね、その男にかかりきりでその、金を使わせたそうです。もうほんとに考えてみよると、「もう、寝覚めの悪いことですけん」ち、いうてから、ここに言いますから、私、申しました。「ところがね、あんたんとこあたりに、遊びにいったり、飲み行ったりする人たちは、もう、その金がね、どこかで使わんならんとじゃん」「もう、そいつは身に付かんとじゃん」「言うなら、不浄の金じゃもん」それば、貴方のところの○○というお店でですたい、それば、全部巻き上げといてから、「ね」、そして、濾過機にかけて、その、例えば、金気なら、金気のある水をですたい、濾過機を通過しますと、それが正常な水になるように、「ね」。「ほんに、それは手間がいりますね」ち、言うてから。その、「濾過機とは、どげなこっですか」ち(笑いながら)。言うてその、話したことがあるですねえ。その、例えば、不浄の金が、浄財になる。清められる。「ね」。それを、私は、それを例えば、あなた方が、例え自分の栄誉、栄華のために使うお金ではなくたって、それだって、そりゃ必ずいかんです、確かに。けれども、それが本当に、神様が喜んで下さるようなことに使う時に、その金は、浄財になるでしょうと、私は申しました。それじゃ、それば、お供えすれば、浄財になるかというと、そうでも無い。そこに、生かして使う。という、やはり稽古をしなければならんというわけなんです。例えて言うなら、そこの、手のひらの様な狭い庭に、あの、大きな石を三つ据えてあります。「ね」。皆さん、とってもこの家は、素晴らしい神ながらな、庭があってと言うて下さる。「ね」、あの、一年一回ようたしておると言う、後ろに大きな木が二本あるが、あれは、よその屋敷に植わっておるのだけれども、あれが、とても私の庭からおかげで、良いんですね。風を受けたり、涼しかったりで。風は、そういうふうで、とめどもない庭ですけども、あの、石がです。ほんとに、神ながらに生かしてある。ある石屋さんが、あれをしますときには、御広前のほうからだけ見てから、石を据えたんですよ。だから、まあ、それは商売人が致しますから、むごうできておるでしょうけれども、もうこっちの楽室の方から、ガラスを通って眺めるということは全然考えてなかったんですよ。ところが、あとから、据えてしもうてから、「こらあ、先生、こっちからの方が、良かですばい」ち。私には、( ? )のほうが、返って良い配置に石が、いわば、格好の良いところをこう、出しておる。「ねえ」。あれが、どうでしょう、あの、狭い手のひらのような庭に、あの、大きな石が三つただ、ごろごろと置いてあったら。ま、それこそ邪魔になる、どげんかしてくれちいうごたるだろうと思うんですね。
お互いの、家ん中には、ごろごろしとるようなお金はないでしょうか。邪魔になってるような(笑い)お金はないでしょうか。そげな余裕は全然なかっじゃん。そんなら、なおさらここんところば、ようくおかげ頂かねばいけません。「ね」、きっと、お宅のいわば、金庫の中に、邪魔になるようなお金があったに違いがないですよ。「ね」。それを、生かして使い切らずに、「ね」、殺して使こうておるから、現在難儀しなければならんのですよ。誰だって、生かせることは嬉しいけれど、殺されることは嫌ですから。金だって同じ事。お宅あたりの金庫の中に、ごろごろ邪魔になってるような金はないでしょうか。あるならば、それを生かして使わじゃいけません。生かすすべを覚えなきゃいけませんよ。いいえ、もう、そげな余裕はなかと私が言う。もう、がびがびち。もう、店はあるとはもう、借金ばかりち。というような人の家にはですよ、必ず(    ?    )「ね」。
それこそ、邪魔になるような金があった人のお家なんですよ。昔から、貧乏しとったちいうことはないですよ。けれどもそれをです、生かして使い切ってない。「ね」。信心とは、それを生かして使うことを覚えることなんですよ。「ね」。
石屋さん、いわば、庭師の方がです、その石を本当に生かすこつを覚えていて、いつかは、あの、狭い中にあの大きな石を三つもすえて、邪魔にならんどころじゃない、見るものをして、いい庭だなあとこう、心のなかに何か良いものを与える。
皆さん今日はね、本当に十円の金を使うでも、生かしてお使いになることに、どういうような使い方をすることが、生きることか、どういうような使い方をすることが、いわばその、お金の喜ぶことか、お金を喜ぶような使い方にならにゃいけません。そこで、ほんなら、そのお金の喜んだときは、どういうことになるかというとですね、こっちが、有難うなるです。嬉しい。たとえ、それが、お供えでありましても、ほんに付いていこうごたるお金であったら、それは決して生かして使うお金じゃない。「ね」。いかせれば、生かされた金そのものが喜ぶ。いわば、神様が喜んで下さる。その喜びがこちらへ、帰ってくるような、いわば、使い方をしなければいかんのです。(   ?   )をした。「ね」。というような、例えば、ほんなら十円の金でも、そういう遣い方があるのですよ。ですから、そういう使い方でけんなら、よし例え、十円であっても、いつまで遣うことはならんということ。
小さい鏡は、もう、それこそ、より湯水のごとくというと可笑しいですけど、その少しまとまった金になると、生かして使われるようなチャンスを与えられておっても、ようそれを生かせきらん。椛目の方たちの場合はもう、ほとんどがです、もうつい、こんな金ごろごろしておるといったような、いわば邪魔になるほどに持っておる人は先ず無い。と私は思うです。「ね」。ですから、こういうようにして、これからもし頂くものがあるならばです、頂いたものを生かして使い、お金に喜んでもらい、神様に喜んでもらうような使い方をさして頂いて、「ね」。もうあすこに行きゃ、必ず大事に生かしてもらうからと言うてから、金のほうが、いわば、その、( この間10数秒聞き取れません )
「ね」。金払いの少し良いちが、その、もう金が入ってくると、もう何か使わにゃならんごとしてから、もう、出してしまわにゃ出けん人がおる。もう、そげな人んとこにゃ決してお金は集まってきませんよ。大事にしませんもん。「ね」、それかというて、大事にしまいこめ、というのじゃない。「ね」。それは、かえって邪魔になります。それこそ小さい庭に石を転がしておるようなもの。「ね」。
お金のあるために、家庭不和が起こったり、お金のあるために、様々な、お金のあるために、難儀が生じたりというのは、そのお金が、邪魔になっている証拠です。「ね」。それから、ほんとに神様に御願いをして、神様におすがりをして、それを、本当に生かさせていただくことにです、焦点を頂かしていただくことを願わしてもらい、生かさせんように自分がしよるならばです、それはもう、まあ、一時は、使わずに大事に直しておくということを、そころが、直しておっただけでは、どうもこうもつかんから、それを本当に使うて良かったと、「ね」、出してしもうて良かったと、その後にです、自分も喜べれるようなです、使い方の出来るまで、私は、それを無駄に使うようなことがあってはならないと思う。
昨日、ちょうど夜の御祈念の前でした、ある方が、親子五人連れで参ってきて、このくらいな、このくらいぐらい大きいあのう、恵比寿様、福岡の何とか、十日恵比寿のくじで、今年の正月に引き当てた。それでこのお母さんが、あのう、ね、不浄の付かぬと、有難いと思うときに、このなかにお金を入れることにしている。それでこの、昨日、こうやって、もっと段々、多くなってくる、この日でこのいよいよ、入らんごとなったから、一杯になったからその、もう普段に持ってきたわけなんです。「ね」。私は、その時は、下がっておりましたから、「先生、今お供えさせて頂いたこのあれば、もう一遍使わせてもらおうと思いよりますけん、お金は出してください」ち。「で、あのう、恵比寿さんだけ頂いて帰りますけん」ち。それは、あのうあちらで裏が剥げるようになっていますから、剥いでから、出しました。幾らぐらいはいっとるじゃろうか。「幾らはいっとると思うの」と、私が言いました。あそこん、息子がきとりましたが、「ああ、七千円ぐらい入っとるじゃろ」と言うて(笑い)、それで丁度、栄四郎が前に居ましたから、「栄四郎君はこれ、幾ら入っとると思う」と。「僕はそれ、一万円ははいっとると思う」と、こういうわけなんですね。はあ、どっちがどげんじゃろうかと言うてから、その、数えさせて頂いたんですけどね。「はあ、一万五円入っとる」もう、そのお母さんが涙を流して喜ぶとですたいね。もう、神様のお働きには、恐れ入ってしまうと言うてから。「ね」。それだけ、この、幾ら幾ら幾らと、覚えとるわけがなか。それが、この、きっちり一万円であったということが有難い。「ね」。いわば、自分がしよるとじゃない、神様がさしてくださりよるとであり、神様がお供えさせて下さりよるとであると、こう思う。だから、もう先生涙の出るごと有難か。ほっで、私が、ほんなら、まあ一遍この五円玉だけ入れとこ、またご縁のあるごと。(笑いながら)私は、笑い笑い入れてやりました。「ね」。もう、ほんとにですね、ちょうど一万円でした。これなんかは、神様がもう、期せずして生かして使うて下さったのですね。その人たちの喜びがです、神様をやっぱり動かすんですねえ。だから、私共はです、あの、石屋さんが、前のほうからだけは、いつも頂いておるところの技術をもって、生かしたのだけれども、「ね」、北側から見る庭だけは、自分で見ながらしたんだけれども、東側から見る時の事は、考えてなかった。あそこガラス開けないと思うとった。狭いから。ところが私は後で必ず、後は全部取ってしまうでしょう。ですから、結局私のほうの、控えのほうから見るのが、(   ?   )ところが、先生これは、こっちから見たほうがよかですばいち言うことで、おかげ頂いた。「ね」、そういう、技術を覚えることもさることながら、神様のおかげを頂かなければ、生かすことは出来んということ。「ね」。
(  ?  )ごろごろ、ほんとにごろごろといったって、分りはしませんもんね、そげん、(       ?        )
それでも、それが、邪魔になっておるならですたい、いわゆる、そのために、金があるために子供が出来損なうやろが。こどもの、いや、金があるために、
(  この後6分ぐらい状況悪く最後まで聞き取れません )